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文殊院板橋区

仲宿28-5

真言宗豊山派、幡場山大聖堂と号す。
江戸初期、本陣飯田家の菩提樹として、昔から信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永2年(1625)寂の権大僧都慶恵。天保6年全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ赴任し、出世寺とも呼ばれた。本尊は文殊菩薩。山門脇に延命地蔵堂、境内に板橋の二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現堂がある。閻魔堂内には、文化年間、番場原出土と伝えられる石樺が朝日観音として祀られている。墓地には史蹟として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂には、板橋七福神の毘沙門が奉安されている。

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遍照寺

板橋区仲宿40-7

江戸時代は大日山と号し、区内内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動冥と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっています。
境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立などがつながれていた。境内にまつられる寛政10年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。
また、堂内には上宿の居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。

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板橋宿本陣跡

板橋区仲宿47-12

現在、ライフストアになっています。。本陣とは、江戸時代の宿場で大名公家などの貴人が休泊した宿で、門、玄関、上段の間を持ち、その家は苗字帯刀を許されました。
板橋宿では、飯田家が代々本陣役を務めた。参勤交代大名30家をはじめ、和宮や東山道軍が宿泊しました。

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高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)

板橋区仲宿56-15

幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(1804~50)は、弘化元年6月晦日小伝馬町獄舎の火災による切り放しのときに脱獄、そして逃亡した。出牢後の1ケ月は幕府の厳しい探索にも拘わらず消息不明であったが、7月下旬のある夜、彼の門人である医師杉村玄洞宅を訪れた。
玄洞は身の危険を知りながら一両日長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜には北足立群尾間木村に住む同門で実兄の医師高野隆仙宅へ人をして逃れさせた。
長英はその後郷里水沢の老母を尋ね、されに江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け再び江戸に舞い戻ったが、嘉永3年10月30日白青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。

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乗蓮寺跡

板橋区仲宿62

昭和46年(1971)移転
「江戸名所図会」の挿絵(表・挿絵)に門前の景観が描かれている。徳川家康より寺領10石を認められた朱印寺。
鷹狩の際の、将軍の小休所、御膳所にもなりました。浄土宗。
明治期には、板橋警察や、板橋第1小学校の前身がおかれましたが、首都高速5号線の工事により赤塚へ移転しました。

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飯田家脇本陣

板橋宿の本陣や脇本陣はどのような「明治」を迎えたのでしょうか。その一端を明らかにする史料が、板橋宿中宿の名主で脇本陣を務めた飯田宇兵衛家に残されています(飯田侃家資料、板橋区登録有形文化財・有形民俗文化財)。ここから脇本陣飯田家家屋の「明治」の姿をのぞいてみましょう。
明治11年、現在の板橋区・豊島区・北区・荒川区・練馬区を範囲とする北豊島郡が誕生します。その際、北豊島郡役所が下板橋宿に設置されることとなり、飯田家の家屋の約半分(建坪75坪、7部屋)を借用し、開設しました。郡役所との契約によると、家賃は1か月4円17銭。敷地・建家の管理や修繕などの費用は飯田家が賄い、畳や障子の張り替え費用は郡役所が支払うことが取り決められています。
その後、同19年に郡役所は事務量の増大などのため、新築庁舎を建設し移転しますが、同21年からは東京区裁判所下板橋出張所(登記所)が飯田家を間借りし、開設されます。下板橋出張所との契約では1か月9円の家賃で、契約証には「表門は裁判所の構内である」「終始苦情などは述べない」などの文言が見られます。文言の通りとすれば、飯田家のかたは裏門から出入りするなどいろいろと生活に不便な点があったのかもしれません。なお、下板橋出張所は大正5年(1916年)まで飯田家の家屋を借用し業務を行っていました。
このように脇本陣飯田家の家屋は明治になっても公的施設として利用されていましたが、同時に家屋の部分的な解体や買い上げを郡役所へ願い出ている史料があります。そのことからは広大な家屋を維持するのが困難であった様子もうかがえます。
明治を迎え、本陣や脇本陣はその役割を終えるとともに、広大な施設の維持が困難となり、敷地の売却や縮小、あるいは建家を旅館や公的施設として転用する例が見られます。飯田家では建物の規模を縮小させながらも公的施設としての役割を担い続けました。現在、板橋宿の本陣・脇本陣は姿を消しましたが、飯田家の脇本陣は江戸・明治・大正時代とともに歩んだ、まさに板橋の歴史を物語る証人であったのです。

【文化財専門員 中村陽平】
※平成22年10月23日発行「広報いたばし」より

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